高井美和とPIWECの軌跡:徐根源先生との出会いから「美和成院」の現在まで
1. 2004年、セラプレイとの出会いと札幌での日本初の挑戦
私の探究の旅は、2004年にセラプレイ(Theraplay®)と出会ったことから始まった。大きな転機となったのは2007年、米国で開催されたセラプレイ国際会議での、社会福祉法人「麦の子会」の北川聡子先生との出会いだ。この出会いが実を結び、2010年、北海道札幌市にある麦の子会の発達クリニックにおいて、日本で初めてとなるセラプレイの臨床実践をスタートさせることとなった。
その後、東日本大震災の発生を機にソウルから東京へと戻ったが、東京の心理士や臨床家たちから「ぜひ東京でも指導してほしい」と強く懇願されたことをきっかけに、武蔵野市・吉祥寺にてカウンセリングセンターを開設した。それ以来、東京以外でも、静岡や岡崎 など 施設や病院での臨床やトレーニングを続けていくこととなる。
しかし、米国発のシステマティックな技法を日本の臨床現場に導入するこの試みは、非常に先駆的であると同時に、日本の養育文化や子どもの固有の関係性、そして感情表現の狭間で、模索と葛藤を繰り返す日々でもあった。「形や技法、そして大人の都合(コントロール)に頼るのではなく、目の前の子どもの内面世界を本当に理解するにはどうすればいいのか」――その答えを求める切実な問いが、すでにこの時から深く芽生えていた。
2. 孤独な実践の日々と、ソウル大学・教育人類学学会での「運命の出会い」
実は札幌に行く前、私は大韓民国政府奨学金を得て、淑明女子大学大学院(修士・博士過程)に在籍していた。その間、Youn’s Theraplay Counseling Center(当時韓国セラプレイ協会)に所属し、6年間の臨床トレーニングを様々な現場で実践を積み、そこで「質的研究」という、現象をありのままに深く読み解く学問アプローチに出会った。そこで、教育人類学の学会を紹介され通い始めた。それこそが、一体セラプレイのセッションの中で何が起きているのかを理解し、言語化するのに必要な方法であり、いつか本格的に学びたいと心に決めていたものである。。
札幌での臨床が始まり、孤独とも言える先駆的な現場で多忙を極めていた時期も、私は毎月ソウル大学で開催されていた教育人類学学会に、日本から休むことなく参加し続けた。どんなに過酷な状況にあってもソウルの学会に身を置き続けることは、私にとって「自分自身を保つこと」であり、「研究者であり続けるため」に絶対に欠かせない場であった。
そしてある月、その学会の席でたまたま隣に座っていた人物こそが、のちの人生の師となる徐根源(ソ・グンウォン)先生だった。
学会に出席し続ける中で、徐先生から浦項(ポハン)で開催される「質的学校」のための合宿に誘われた。この合宿への参加こそが、「子どもの眼で世界を見る実践探究(PIWEC)」を元にした「まなざしの土台プログラム」の原点であり、本当の始まりの瞬間となった。
3. 徐根源先生の思想と「PIWEC」の結実
徐根源先生が提唱する「大人の眼鏡(既存の評価基準や偏見)を外し、子どもの眼で世界を見つめる」という教育人類学・質的研究の思想は、私が現場で抱えていた葛藤に一筋の鮮烈な光を差し込ませた。
10年以上にわたる徐先生からの学問的・精神的な薫陶を受けながら、私は自身の長年の臨床経験を「子どもの視点」から徹底的に再構築し、博士論文を執筆。児童心理療法の分野における博士号(Ph.D.)を取得した。こうして、単なる技法の適用(Practice)ではない、理論と臨床の省察が完全に融合した変革的実践「PIWEC(Praxis Inquiry With the Eye of a Child)」という確固たるメソッドが誕生した。
4. 現在:「美和成院」としての魂の継承と、7名の修了生
博士号取得後、私は「NPO法人日本セラプレイ協会」および「セラプレイ・カウンセリングセンター東京」を拠点に、PIWECの社会実装を本格化させている。
2023年からは、恩師である徐根源先生を毎年日本へ招聘している。徐先生との深い絆と、日本での探究の広がりの中で、私は先生から「美和成院(みわせいいん)」という名を授かった。これは、私が歩んできた探究の道とその志が正統に受け継がれている証であり、今後は日本国内での探究をさらに深め、続けていくことへの大いなる応援であると受け止めている。
現在、徐先生の直接の指導のもとで「基礎修練」が厳格に行われており、現在までに7名の尊い実践者が基礎修練を修了した。
「技法」に溺れることなく、子どもの生きる世界を共に探究する伴走者を育てる。札幌での日本初の実施から始まったセラプレイの臨床とまなざしは、徐根源先生という偉大な師との出会いを経て、今、日本国内で確かな進歩を遂げ、次世代へと受け継がれていくことが強く望まれている。